自立の道を選択した村

文=牧 大介

2004年に、西粟倉村は美作市への合併協議会から離脱することを宣言しました。当時、合併は国策としてやっていることなので、それに従うのに当たり前というところがありました。小さな役場がいっぱいあるよりは、大きくまとめて効率化していきましょうという流れがありました。通信も物流も発達してきている中では、一つの自治体をできるだけ大きくする方が合理的で、将来的に国が道州制に向かっていく中で、理に適ってる部分はあったかもしれません。しかし、人口1600人の西粟倉村が、何万人という市の中に入ってしまうと、辺境の扱いになってしまいます。今は人口1600人のために村役場があるわけで。何万人という自治体の一部になると、選挙でもあまり影響力を持てなくなってしまいます。自分たちの村長、自分たちの役場が無くなって切り捨てられていくということは予想されていました。

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● 西粟倉村の独立宣言

実際、現状において合併に参加した旧東粟倉村と西粟倉村では状況がぜんぜん違います。西粟倉村がたくさんのIターン者を受け入れながら人口を維持しているのに対して、旧東粟倉村では第三セクターは精算して解散させられ、人口も減る一方です。西粟倉村役場は、部署の統廃合もわりと早い時期に終わらせて地道に行政改革も進めていたので、財政面でもより状況の悪い他の周辺自治体と一緒になるメリットがあまりなかったところもあります。

● 一方で合併したいという声も

そもそも合併しないということは、国に逆らうということなので、財政面で非常に厳しい状況に追い込まれるという漠然とした不安もありました。また、合併して大きな役場になるほうがより安定するという考え方もあります。村全体の過疎化高齢化がこのまま進んでいくということを前提していくと、いっそ合併して大きな役場の一員になっていた方がいいという声もありました。過疎化高齢化を止められないものだとすると、そもそも単独で役場や学校を維持していくことはできないと考えざるを得ません。小学校が一学年十人切るくらいになってきていましたので、大きな市になって小学校も統廃合されて、子ども達にはできるだけ同級生ができるほうがいいと考える親も少なくありませんでした。

● 過疎化高齢化が前提でいいのか?

大きな社会の流れに逆らえず過疎化高齢化が進んでいくなら、合併をするほうが村民のためであるという見方もありました。一方で、やっぱり諦めてはいけないんじゃないかという声もありました。いろいろな意見があるなかで、村民アンケートが実施され、六対四でやや合併反対の声が上回った。そして村長の決断により、合併協議会からの離脱が宣言されました。

丁度その頃に総務省の地域再生マネージャー事業というものが始まっていました。小泉内閣で地域再生という言葉が使われはじめた頃。民間企業の経営ノウハウを利用しながら地域を活性化していこうという事業でした。西粟倉村では2004年から2006年までこの事業が行われ、地域再生マネージャーとして総務省から派遣された民間企業がアミタ株式会社でした。合併しないということは結局小学校も中学校も統合しにくくなる。村が単独でやっていくっていうことを決めたわけなので、過疎高齢化がこのまま進んでいくという前提はおけなくなった。なんとか過疎化高齢化を止め、自立してやっていける村をつくるしかなくなったのです。

● 心をたくさん通い合わせることで満足してもらえる「心産業」の村

「こんな小さな村だから仕方ないよね」と思うのが普通ですが、合併しないと決めてしまった以上は、なんとか過疎化高齢化を止めるしかない。ちょうどそのような状況になったタイミングとあわせて地域再生マネージャー事業が動き出した。というのが2004年だった。できるだけ支出を押さえて財政を回復させるという我慢の状況が2006年くらいまで続きました。小泉内閣の時に地方に配られるお金がだいぶ絞られたので、攻めに出ることもできない。また、どうしたらいいのか村もよくわからなかった。村が村として生き残っていくしかないということだけがはっきりしたけれど「じゃあどうするの?」という議論が始まった。一年をかけて一つの言葉、地域経営及び産業振興を進めていく上でのコンセプトが言葉になったのが2005年。

心産業(しんさんぎょう)の創出。という村のコンセプトが決まった。なぜ田舎が疲弊してきたのかといいうことを突き詰めていくと、結局ものだけが大量に生産されて消費されて行く中で、お金を使って消費するようになり、その分「心」を使わない社会になって来ている。その大きな流れに田舎も飲みこまれてきた。この大きな社会潮流から離脱し自立していくことを選んだ村は、お金よりも心をたくさん使い心を通い合わせていくことで満足してもらえる村でなければならない。心と心の繋がりを育んでいくというスタンスに立ち返ろう。というところに一年かかって到達したのでした。

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● 村の人事部 雇用対策協議会の設立。

2006年に村の若者たちが株式会社木の里工房木薫を設立し、心産業を形にする挑戦を始めました。そして2007年の雇用対策協議会の設立が、地域経営の構造を改革していく上で非常に大きな出来事となりました。木薫設立などにより新しい挑戦が生まれ始めると、すぐに新しい優秀な労働力の確保が重要課題になってきていました。そして村のために必要な人材の発掘育成を行う組織として、雇用対策協議会が設立されました。Iターン者を迎え入れるためには住居の確保も必要です。貸してもらえる空き家を探すために、当時課長補佐だった関さんが、村内にある70件すべての空き家の所有者に電話をして交渉をしました。雇用対策協議会設立から約三年間の間に、西粟倉村に移住してきた人の数は、約40名にもなりました。

2008年度の後半に「百年の森林構想(ひゃくねんのもりこうそう)」が掲げられました。放置されている森を村が所有者から預かって責任をもって管理していこうという構想です。10年がかりで村全体の森林再生を軌道に乗せていくため、必用な資金の確保と村のファンづくりを同時に進めていくための手段として、「共有の森ファンド」が2009年よりスタートしました。百年の森林構想の具体化により、間伐面積が拡大し素材(原木)の生産量が増加することになります。素材生産量の増加に合わせて、木材等の地域資源から商品を生み出し販売していくことで、雇用を拡大していくことも可能になります。そのための地域商社の設立を目指す森の学校プロジェクトも2009年から動き始めました。百年の森林構想と連動しながら、心産業を発展させ、村民と心を通わせながら西粟倉村のファンになってくださる方を拡大していく会社を設立することが森の学校プロジェクトの目的です。森の学校の社員は10人。そして76人もの村民の方が森の学校の株主になってくださいました。村ぐるみで心産業を推進していく体制がようやく整ってきました。

(季刊誌ニシアワー 2010年春分号より)